神代の守り人

神代の守り人-主な活動内容

【活動内容】

 

1. 鹿児島県に伝承されている神話の教育を図る活動

 

2. 地域活性化・観光の振興を図る活動

 

3. 伝統文化・芸能文化・食文化の振興を図る活動

 

4. 神話の地域の環境保全及び利活用に関する活動

 

5. 神話を共有する他府県との連携活動

 

薩摩川内

  可愛山陵

 

南さつま

  笠狭宮跡碑

霧 島

  高屋山上陵

鹿 屋

  吾平山上陵

南さつま

  笠狭宮跡碑

竹屋神社

笠狭宮跡碑

ニニギノミコトが野間岳の麓にある「宮ノ山」から次に移って来た地とされています。この地においてニニギノミコトは、宮居として天にも届くような柱を用いた建物を構

えたとされています。昭和15年に鹿児島県が公園として整備し、その際に立てた記念碑が桜並木の中にあります。

また公園の入口には「日本発祥の地」を示す記念碑もあります。

 

可愛山陵

神亀山と呼ばれる高さ約70メートル、周囲約4キロの形状が亀に似ている山の山頂付近にあります。可愛山陵はニニギノミコトの御陵(お墓)とされ、陵道は昭和15年に368段の石階段が整備されました。御陵は、カコウ岩で囲まれた高塚式円墳とされており、明治7年に山陵として定められました。

 

薩摩川内

  可愛山陵

 

新田神社

高屋山上陵

明治7年に明治政府によってヒコホホデミノミコトの御陵と定められました。この地は神割岡と呼ばれており、御陵は二段山作り盛り土で、自然石で表面が敷き覆われているとされています。近くには、ヒコホホデミノミコトがトヨタマヒメと出会った場とされる大川内丘があり、ここは「みそめ丘」とも呼ばれることに由来して「みそべ(溝辺)」の地名が生まれたとされています。

 

霧 島

  高屋山上陵

鷹屋神社

吾平山上陵

ウガヤフキアエズノミコトの陵墓とされ、明治7年に明治政府によって定めらました。姶良川沿いにある岩洞内には塚がふたつあるとされています。ひとつはタマヨリヒメの陵墓とされて、現在は岩洞を対岸から参拝するようになっています。清流の姶良川とその支流沿いを歩く参道は、周辺の森と合わせて神聖な雰囲気を漂わせています。

 

鹿 屋

  吾平山上陵

鵜戸神社

知 る・見 る・聞 く

◆古事記や日本書紀を基本とした鹿児島県の各地域に伝わる神話を織り交ぜて、まとめてみました。◆

 

天孫降臨

天上には高天原と呼ばれる国がありました。それから死者の国である黄泉国がありました。その間には人間が住む葦原中国がありました。高天原にある神々は、地上の国の葦原中国に神々を送ることになり、その役に任命されたのがアマテラスオオミカミの孫にあたるニニギノミコトでした。ニニギノミコトは神々を率い、三種の神器(八尺の勾玉・鏡・草薙剣)を奉じて地上へと向かいます。途中で道案内をしてくれたのがサルタヒコノミコトでした。こうして、神々の一行は地上の筑紫の日向の高千穂峰に降り立つことになります。

 

コノハナサクヤヒメとの出会い

 

高千穂峰に降り立ったニニギノミコトは、さらに良き地を求めて朝日の直刺し夕日の輝く吾田長屋笠狭碕に向かいます。そこでニニギノミコトは、コノハナサクヤヒメと出会います。ニニギノミコトはコノハナサクヤヒメに惹かれ、その父であるオオヤマツミノミコトに結婚を申し込みます。オオヤマツミノミコトは喜び、コノハナサクヤヒメの姉であるイワナガヒメも一緒に結婚させようとしました。しかし、ニニギノミコトは断ってコノハナサクヤヒメとだけ結ばれることになりました。

 

 

 

海幸彦と山幸彦

三皇子が生まれた後にニニギニミコトは、笠狭宮から千台に移られて亡くなります。そのお墓は可愛山陵とされています。さて、皇子らは成長し、ホデリノミコトは海で魚を獲り暮らしていたことから海幸彦とも呼ばれていました。ホヲリノミコトは山で獣を獲っていたことから山幸彦と呼ばれていました。ある日、山幸彦は兄の海幸彦にたまには道具を交換してみようと提案します。ところが兄の釣り針を使って魚を獲ろうとしましたが、慣れない山幸彦は兄の釣り針を海で失くしてしまいます。兄の海幸彦は許さずに、山幸彦に失くした釣り針を見つけるように命じます。困っている山幸彦は潮の神であるシホツチノオキナに出会い、ワタツミの宮に向かうことになります。このワタツミの宮で、トヨタマヒメと出会った山幸彦は三年間過ごすことになります。

 

 

三皇子の誕生

結ばれたニニギノミコトとコノハナサクヤヒメですが、すぐにコノハナサクヤヒメは身籠りました。ニニギノミコトは、すぐに身籠ったことを疑いました。するとコノハナサクヤヒメは、生まれる子があなたの子ならば、燃え盛る小屋のなかでも無事に生まれることができるはずですと告げて、出入り口の無く、壁は土で塗り固められた産屋に火を放って出産しました。こうした状況のなかでしたが無事、ホデリノミコト、ホスセリノミコト、ホヲリノミコトの三皇子が誕生しました。

 

 

 

ウガヤフキアエズノミコトの誕生

 

ワタツミの宮で三年間過ごしていた山幸彦は、トヨタマヒメの父のワタツミノカミからのどにとげが刺さった鯛がいることを教えられます。その鯛ののどに刺さっていたのが、失くした海幸彦の釣り針でした。山幸彦はワニの背に乗り、ワタツミの宮から帰り海幸彦に釣り針を返しました。その後争いもありましたが、兄の海幸彦は弟の山幸彦に付き従うことになります。そしてワタツミの宮から山幸彦をトヨタマヒメが訪ねてきて、子を身籠ったことを伝えます。トヨタマヒメの出産のために鵜の羽根を使って産屋を建てましたが、建物が出来上がる前に生まれそうになります。トヨタマヒメは山幸彦に「子どもを産む姿を絶対に見ないでください。」とお願いします。ところが覗いてしまいます。するとトヨタマヒメではなく巨大なワニがいたのです。こうしてウガヤフキアエズノミコトは誕生しました。

 

神武天皇の誕生と東征

子の生まれた山幸彦は、その後ヒコホホデミノミコトとなり、亡くなった後のお墓は高屋山上陵とされています。ワニの姿を見られたトヨタマヒメはワタツミの宮に戻りますが、我が子のことが気になり、妹のタマヨリヒメに子供を育ててもらうことをたのみます。叔母であるタマヨリヒメに育てられたウガヤフキアエズノミコトは成長し、後にタマヨリヒメを妻として四皇子が生まれます。その4皇子の末弟がカムヤマトイハレビコノミコトこと後の神武天皇です。末弟は兄に天下を治めるために東に向かうことを提案し、兄弟は協力して旅立つことになります。その際にカムヤマトイハレビコノミコトの妻であるアイラツツヒメは、東に向かわずに残ったとされています。またウガヤフキアエズノミコトは、亡くなった後のお墓は吾平山上陵とされています。日向を船出したカムヤマトイハレビコノミコトは、筑紫国や安芸国などに滞在し、また戦で兄を失いながらも大和を平定し、神武天皇として即位します。

 

 

古事記・日本書紀とは?

ふたつの歴史書は、7世紀末に天武天皇の命によって編纂されました。ふたつの書の特徴は、収録された年代に違いはありますが、天地の始まりから神々の世界、さらに天皇家の起源と歴史が記述されています。まず「古事記」は、稗田阿礼という人物が「帝記」と「旧辞」という書物を記憶しており、その口述を太安万呂が書き記したもので、日本語として読める漢文体で表記され、和銅4(711)年に完成しました。「古事記」はどちらかといえば国民に向けた天皇家の歴史書ともいえます。一方「日本書記」は、様々な人物が関わり、表記は漢文であることから海外に向けた日本の正史として編纂され、養老4(720)年に完成しています。「日本書記」は「古事記」に比べると、神々の物語である神話の記述が少ない傾向にあります。こうして、ふたつの書は日本で最も古い歴史書として、その後の様々な歴史研究に影響していくことになります。

 

KAMIYONOMORIBITO 2021

NPO法人 神代の守り人

【薩摩川内事務局】◇統括事務局◇薩摩川内市●中俣 知大 所在地:薩摩川内市高城町1692☎0996-22-0694

 

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